
変わってるね。って言われたことありますか?
小さい頃から人と同じことをするのがなんか嫌だった。
だからと言って「変だね」って言われるのは怖い。でも普通になりたいかと言われるとそれもピンとこない。
「自分のままでいたい」ということが甘えだと知って、悲しくなったことがあった。
でも「私は私のままで楽しみたい」と願うことが甘えなら、何のために、誰のために自分がいるのか分からなくなる。
ただでさえありのまま楽しく生きることが許されない世界で、自分を自分が否定するなんて、正直言って自殺行為のような気がする。
自分のまま愛されたいなんて思うから、こじらせて歯車が合わなくなってくるんだ。
愛されない自分を、そのまま愛せよ。わたしぐらい。
「20歳が1番良い歳だったね」なんて誰にも言わせないんだから
ノートから、こんなニュアンスの言葉を書いたメモが出てきた。好きだ!と思った言葉をメモする癖があるので、きっと誰かの言葉なんだろうと思う。
誰かにとっての20歳と、わたしにとっての20歳は違う。そんなの当たり前のようなことなのに、当たり前のように比較をしてしまうのはなぜなんだ。
野球の大谷翔平選手とは同い年なのだけど、同じ28歳の年なのになんでこんなに違うのか、なんて思ってしまう時がある。
大谷選手には大谷選手の28歳があって、わたしにはわたしの28歳があるだけなのに。ね。
私の年齢は、私の人生のためだけにあることを信じたい。
大人になったらもっと上手に怒れるようになると思ってた
子どもの頃は、感情任せに怒っていて、怒ることはあまりなくなったものの、今も感情任せに怒ることが多い27歳がここにいる。恥
周りをちゃんと見て、広い視野から見て、自分の感情だけじゃなくて状況をきちんと判断しながら怒れる人は本当にすごいし、必要なことだと思う。
でも正直なところ、湧いてしまった私の怒りとか悲しみは関係ないのだ。
広い視野で、他の人の状況が見えたとしても全く関係ないぐらいむかつくものはむかつく。
しかもそんな自分の感情を押し殺して辿り着く答えなんか、ただのハリボテでしかないような気もする。
この気持ちを持っている限り、みんなで足並みをそろえるこの国では生きづらそうだけど、それでもムカつく時は怒っていいし、悲しい時は泣いていいし、場合によっては理不尽なことを言ってもいいのだ。
誰かの求める『正しさ』はそこにはないけど、わたしの正しさはそれでもそこにしかない。
自分が好きとか嫌いとか、もはやどうでもいいのでは
大学生ぐらいの時までは、「こんな自分嫌いだ」って悩んだことが多かったように思える。
バカにされても笑ってごまかす自分が嫌だったし、そのくせ負けず嫌いで頑固な性格が嫌いだった。
あれから5年たって、ブラック企業で体壊すまで働いて、離婚も経験して神経が図太くなったのか、そんなことはもはやどうでも良いことに気づいてしまった。
だって好きだろうが嫌いだろうが、どうせここにいるのだし。
嫌いだから離れる、とか、好きだから近づく、とか。そんなこと一切できないのだし。
好きだろうが嫌いだろうが、自分が自分であることには変わらないのだし。
めっちゃ好きなものを見つけた時
めっちゃ好きなものを見つけたとき、すでにそれを好きだった人は絶対にいて、その人から見たら「好きになりたてじゃん」ってことに物音一つ立てないくらい静かに傷ついている。(分かりづらい)
めっちゃ好きだけど自分には絶対できないことにも、少し傷ついている。
だって人は自分にないものを好むらしい。自分にできないこと、向いていないことをそのたび目の当たりにしているような気持ちになる。
それでもやっぱり好きなのだ。もっとずっと好きでいたら、「好きになりたて」から卒業出来たら、1㎝くらいは近づけますか?
バカにされやすい性格だからこそ気づいた。
根っからの妹気質でちょっとバカなくらいが生きていきやすいと思ってたからか、それとも認めたくはないが俗に言う天然っちゅーものが入っているからなのか、いじられキャラというか、馬鹿にされやすいところがある。
でもその場では笑って冗談を言い返すぐらいの度胸しかないので、ここでそいつらへの不満をぶちまけようと思う。身に覚えのある人はそこに正座ね。
賢さって、そんなにすごいですか?
人を軽蔑したり、罵ったりしても良いぐらいすごいことなんですか?
これは多分なのだけど、「馬鹿だね」という言葉の裏には「俺は賢い」が少なからず含まれている気がする。それって結構かっこわるいぞ。
バカなんてない基準の賢さが美しいって気づいてくれ。
そしてそれに気づけた私はやっぱり天然ではないと思う。忘れっぽいだけです。
むむむ…。ちゃんと深夜みたいなブログを書いてしまった。朝になったら恥ずかしくなることを書いちゃうのも深夜の醍醐味だよね。
コメント