どうも、まるです。
私もそうだったのですが、日本人として生まれた宿命なのか、「誰にも嫌われたくない」の感情が先行しすぎている気がします。
嫌われて悪いことを言われたり、相手の態度に傷つくくらいなら今は我慢して笑っていた方が面倒くさい事態は避けられる。
きっとほとんどの人がこんな経験していると思います。
しかもこれが「大人になった」ってことな気がするし、これができないと逆に子どもだなって思われそうだし。
いやいやいやいや、ちょっと待て、
世の中の人間。我慢しすぎてないか?
嫌いな人はいていい。嫌いな物もあっていいのよ。
好きになるために嫌いなものがある
嫌いなものはなるべくない方が良いと思って、無理に克服したり、嫌いな人にもなるべく優しくしたり(善意が返ってくることはほぼない。笑)を心がけていた時期があります。
「嫌われたくない」の気持ちからそんなことをしていたんだと思いますが、それを繰り返していたら、あることが起こりました。
あれ。わたしって誰(何)が好きだったんだっけ?
好きなことと嫌いなことの差をあまりつけないようにしていた結果、自分は何が好きで、何が嫌いか分からなくなってしまったんですね。笑
そうなると、自分が好きなことをしているはずなのに襲ってくるなんか違う感。
何をしていても誰といてもどこか心から楽しめない。パッとしない。
そこでやっと気づけました。
嫌いなものは”敵”だと思っていたけど、好きなものを気づかせてくれる”味方”だったんだなぁーと。
つまり自分の中身は全部自分の味方です。
好きも嫌いもどっちもあなたの味方なので安心してください。
大人になんてなってたまるか
「我慢できてえらいねー」という幼い頃からの褒められワードのせいなのか、「我慢=良いこと」っていう概念が強い世の中になってしまっている気がします。
でもそれって本当にすごいことなのかなあ。
我慢することはもちろん美徳みたいな面もあるのかもしれないけど、実際は自分の気持ちを素直に主張したり、嫌なことは嫌って言えたりすることの方が圧倒的な難しさがあると思います。
我慢を重ねていくことで大人になるというのであれば、もちろん必要な我慢はあるかもしれない。
我慢の先で得られるものは確かにあると思うし、頑張ることが我慢と直結する場合もあります。
ただ、泣きたいようなことがあった時に、泣きたい気持ちを我慢して笑えるのが大人だというのなら、大人になんかになってたまるか。
我慢するのに慣れてしまったら、泣きたくても泣けなくなって、
それが強さだと思ってしまった矢先には、我慢するのが美しいとさえ思ってしまいます。
ここまで来たらもう自分の気持ちは置いてけぼりで、誰のための自分なんだろうって。
・・・これはどう考えても良くない。
私としては何でもかんでも我慢するのではなくて、そこに自分で我慢する基準を設けてもいいと思います。
例えば、その先に心から手に入れたいものがあるかどうか、とか。
ある程度の社交辞令ならまだしも、どうでもいい他人に必要以上に使う気は必要なのか?傷ついてもなお関わりつづけたその先になにか求めているものはあるのか?
今一度考えてみてもいいかもしれません。
あなたの事を傷つこうが構わないと思っている人間に優しくするぐらいなら、あなたのことを好きでいてくれる人にケーキでも買っていきましょう。
そのほうがずっと幸せでいられるはず。
おまけにお腹も満たされちゃうしね。
どうしても我慢してしまう。そんな方への処方箋
とはいっても組織にいる以上、我慢しなければいけない。というあなたはもっと自分に優しく生きていきましょう。
何でもない日にハーゲンダッツとか食べちゃってもいいんです。
夜であっても好きな物食べてお腹いっぱいにして寝ちゃったりとかしてもいい。
小さい頃に、頑張ったらご褒美をもらえたように、大人になっても自分にご褒美をあげちゃいましょう。
今までたくさん我慢してきた人は、我慢することに慣れないでほしいです。
ちゃんと傷ついて、ちゃんと嫌いになって、
泣きたくなったらちゃんと泣いて、
強くなんてならなくていいから自分の気持ちを置いてけぼりにしないでください。
「嫌い」という感情も、ちゃんと味方でいてくれる。
私も自分にそう言い聞かせながら素直に生きていきたいな、と思います。
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